2009年11月23日月曜日

ちょっとひとやすみ ~ 京都への小旅行

今回は、いままでの話題をひとやすみしてこの休み中に行った京都のことをトピックスにしたい。

実は、私の引越し回数は、結構、多い。

しかも、親は「転勤族」ではなかったので、高校までは引越しらしい経験はなかったのだが、高校を出て以来の年数を引越し回数で割ると、1年に1回、引越しをしてきた計算になる。

なかには、1年間に3回引越したこともあったので、実際、毎年引越しはしていないのだが、3年同じところに住めば長いほうであることは確かだ。

勉学のため、転勤のためと引越しの理由は様々だが、それぞれの街で、いろいろな経験をしたので、実家以外に第2、第3のふるさとのようなところが、海外も含めて、いくつかある。

京都は間違いなくそのひとつだ。

京都は、学生時代に4年間、過ごした。

実家以外での初めての一人暮らし、それまで、勉学以外は、ほとんど野球に時間を割かれていたので、ほかの高校生に比べれば、随分、初心な状態で京都に住んだわけだ。

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(京都での初めての下宿先。まだ、ありました!)

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(この外套の下でよくバットの素振りをしてたんです...懐かしい)

実家が関西ではない私にとって、最初は、言葉はもちろん、知らないうちに軒先に上がってくるような人間関係の距離感にかなり戸惑った。

でも、ほとんど親戚や友人もいない環境からのスタートだったので、却ってそれが心地よく、直に気にならなくなった。

それと、関西のなかでも、京都特有なのではないかと思うが、「粋」という表現が似合うところである。

古くからの建物もあるので、街並みは極端に華美に凝らず、規制もあってこれでもかという高い建物はない。

でも、さりげなく、おしゃれで、それに気づくと、見入ってしまう。

それに、京都の人は、苦労をさも苦労したようには決して話さない。

「そんなこともあったなぁ」(文字でイントネーションが再現できないのが残念)をなんて、さりげなく言われるが、よくよく聞いていると、それってちょっと大変なことなんじゃない?と、振り返って思うことがよくある。

そして、何よりも、私が京都に行って良かったと思うのが、失敗しても、また、チャレンジすればいいじゃない?というスタンスを、身を持って学べたこと。

これは、周囲の人たちに恵まれたせいかもしれないが、失敗したことを責められたことがほとんど記憶にない。

むしろ、温かく応援してもらったことのほうが多いと思う。

特に、大学のクラブ活動でそんな経験をたくさんさせてもらった。


冒頭の話に戻るのだが、そのクラブのOB会なるものが、毎年、この季節に開かれるので、可能な限り、参加するようにしている。

その会は、私にとって、とても貴重な集まりだ。

年々、自分との年齢が離れていく(悲しいです…)現役部員と話せる貴重な機会で、彼らと話すと、いつの間にか彼らと同じ目線になって、年の差など忘れて話し込んでしまう。

そして、もうひとつのいいところは、今の自分のやっていることに「座標軸」を与えてくれることだ。

これは、一緒にクラブで、汗を流した先輩、同期、後輩と話すことで実感できる。

卒業後は、各々、別々の道を歩み、それぞれの生活を過ごす。

ただ、この会で、一旦、学生時代の人間関係に時間軸を戻せるので、素直に胸を張れること、まだまだ頑張らねばならぬと思うこと、そして、この部分は周りと比べてとんがっているなと思えること、などいろいろ見つめ直せる。

これは、日々の生活を共有している身近な人とは、分かち合えない感覚だ。

サラリーマンを辞め、自ら会社を作り、事業を軌道に乗せた後輩に、

「そろそろ会社を起そうと思うんだけどな」

と相談したところ、

「ちゃんと儲けが見込めてからでいいじゃないですか」

なんて諭される。

やりたいことはその後輩がやっているような、モノの売り買いじゃなくて、少し違う切り口のことなんだけどなぁ、と思っても、学生時代のその後輩との関係を振り返ると冷静になれて、むきになって説明することもなく、これ以上はこちらも軌道に乗せてから話をしよう、なんて素直に頭を切り替える。

そういう「座標軸」で自分のやっていること、やろうとしていることを見れるから、次はどういう方向で進めよう、と頭の整理が可能になる。

そんな楽しい会合を終え、一夜明けた昨日はお寺巡りをしながら、いい頭の整理ができたと思う。

また、来年、今の想いを進歩させて、話ができたらと思う。


P.S.

竜安寺にある、石庭と並ぶ、有名な一節。

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「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)
I learn only to be contented.

元は仏教の教えとのことですが、「満足することを知っている人は、どのように貧しい暮らしをしていても心はとても豊かで幸せである」という意味とのこと。

なかなか考えさせられます。

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(竜安寺の石庭は、今、改修中)

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